【岡山市北区】白龍稲荷大明神 〜 大石内蔵助 お手植え大銀杏、お触りはダメ!?

岡山市北区丸の内を歩いていると駐輪場の一画に不自然にお稲荷さんの鳥居と銀杏の木がある。

幟には、「大石内蔵助ゆかりの大銀杏」とある。ここは、赤穂でなく岡山だ。どういうことだろうか?何やらいわくもあるようだ。

まず、「大石内蔵助」は赤穂事件の当事者で首謀者。身長は157cmほどで目が細く、梅干しのような顔だったようだ。「男梅」のような男だったのか?平時は凡庸で「昼行燈」と渾名されていた。「昼行燈」といえばパトレイバーの後藤隊長が思い出される。2人とも非常時ではキレキレでキラキラで平時の「昼行燈」とのギャップがかっこいい。好きな2人だ。

さて、大石内蔵助であるが、岡山に縁がある。母親が備前岡山藩の重臣・池田由成の娘の熊(くま)。なんとも強そうなお名前。「熊姫」は、他に徳川家康の孫娘など4人くらいに付けられていて当時はわりと普通の名前だったのかもしれない。(ただし、「ゆうひめ」と読む)今、女の子の名前に「熊」なんてつけると思春期になった時、どんな復讐されるか分からない。

そんな大石内蔵助であるが、後楽園に「手植えの五葉の松」、内山下の水野屋敷跡に「大石手植の銀杏」、野田屋町の天城屋敷(大石の母方の実家?)跡に「手植えの松」というのがあって大正のころまでは岡山の名物だったとある。どうも手植えが好きなようで、ひょっとしたら現在のどこかの森は大石内蔵助が手植えしまくった結果なのかもしれない。蒜山あたりでこれは「大石内蔵助手植えの森」とかで売り出したらどうだろう?

結局、野田屋町の「手植えの松」は、大正のあたりで落雷で枯死。銀杏の方も空襲で燃えたようだ。

今回紹介の銀杏はその子孫か、それとも、落語家のように二代目を襲名したのか。初代の銀杏は、名高く「朝な夕な内山下の空を圧して」いるほど「頗ふる巨大なる」名人、いや名木だった。

そんな名木も視点が変わればデカくて「目障り」だということで一度切り倒そうとされたことがあった。が、「大石内蔵助が手植えしたもので触れば疫病にかかる」と言い伝えられ、誰も切ろうとせず困ったとの話もある。ただ、遊郭で放蕩していた大石内蔵助からすると「自分が植えた木がお触りNGなのか!」なんてあっちの世界から笑って見ているかもしれませんね。

もう一つの大石内蔵助と岡山との接点は「備中松山城」だ。水谷氏の改易の際に松山城収城使(城を受け取る役目)として派遣され、水谷側のもう一人の「内蔵助」の鶴見内蔵助を説得し、平和的な開城に導いている。その7年後に、自ら城を引き渡す側になるとは思ってもみなかっただろう。

話は少し逸れるが大石内蔵助が遺したものは何だろう。それは、「やるときはトコトンやる。そのために、遊ぶ。」の精神ではないか。いや、その逆かもしれない。

仇討ちをトコトンやって成功させ、今頃あの世で大いに遊んでいることだろう。

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