岡山城の辺をウロウロしていたら、「健忘斎中川横太郎君之碑」というものがあり、「誰?」と調べてみました。
誰?
天保7年生まれ、明治36年に亡くなった明治期に活躍した元岡山藩士の社会活動家。
何をした?
県内各地に小学校の設立。閑谷学校の再興、岡山薬学校(今の関西高校)、岡山県公立病院(今の岡山大学病院)の設立・発展に尽力し、衛生啓蒙にも努めています。
また、旧藩士族授産のために、児島湾開墾や会社設立したり、治水、牧畜など近代化普及に多大な功績を残しています。
どこが魅力的?
名前にも筋が通る
隣の幼馴染の森下立太郎と折り合いが悪く、反感を持っていた。そのため、元服時に「立」に対して「横」に生きると称し「横太郎」と名乗ったとか。
この安直というかなんというか、普通でない感が半端ないです。名前に「横」を付けましたが、ご本人には「横着」「横領」「横暴」「横柄」とかあまりよくないイメージは全くなかった方のようです。そういったことは絶対にしないという反面教師的につけた名前なのか・・・。
息子には、「竪一」「斜」と名付けたらしい。これで、たて、横、斜めがそろいましたね。いや、ほんと変わり者・・。ちなみに、「竪一」さんは、洋画家で岡山中学の図画教師になっている。作品はこちら。
衛生啓蒙の工夫 ~お堅い話を聞いてもらうには?
講談師としての許可を得て、講談独演会という形で衛生思想の普及を行っています。
中川横太郎さんの演説の内容を見ていると「体育知育の教育もありますが、心の教導と云ふものが大事」と「心」を大事にするべきだという考えが見られます。当時「一も二もなくヨーロッパヨーロッパと言うことを考えて」いる日本人に自分の「心」(自分らしさ・本分)を取り戻せと主張していたのかもしれません。これは現代にもいえることです。
この講談を使って啓蒙するというアイデアは素敵です。柔軟な発想。人々が聞いてくれないのはおもしろくないから。じゃあ、講談でわかりやすくしてみんなに聞いてもらおうって感じですね。1883年には講談師の免許状を得ています。
全国の校長や政治家の皆さんは見倣ってください!次のスピーチは、中川横太郎さんを見倣って漫談で!
お偉いさんにも媚びない!
明治の元勲(超お偉い人)から来た手紙の意味が分からなかったので、お返しに記号だけの返事を送った。
倍返しだ!とばかりにやり返す。ドラマ化してほしいです。
「元勲めっ!記号返しだ!」
号「健忘斎」にかける思い
「どんなに苦労して功を立てても、その苦労も功も自分自身は忘れなくてはいけない。決して自らそれを誇ることはしない(それをするのは無様な愚行である)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%A8%AA%E5%A4%AA%E9%83%8E
名言です。政治家が言う「記憶にございません」とは違いますね。今の政治家は、都合の悪いことは忘れるし、忘れるような良いことも特にやってないし・・。
※人によりますがね。
生前葬をやって香典を寄付
生前葬をやって香典を当時財政がひっ迫していた学校に寄付したようです。
この学校に寄付するために、生前葬を行ったのか。生前葬をやって香典を得てから、寄付を考えたのか。
前者であれば、すごい人だなと思う。(後者でも十分すごいですが)
このアイデアを打ち明けられた時のご家族はどう思ったのだろうか。本人だけでなく、ご家族もすごい!
自分ができることを精一杯やることを説く
彼の演説で、「世の中は全てのことは我が心より生じる。極楽を地獄にするのも地獄を極楽にするのも心次第」であり、「(例えば、「金を稼げる人間が偉い」という心では卑屈になってしまうこともあるだろうがそういうものではない。視力には見える見えないがある。同じようにできるできないが人によって違うのだから)己の力に応じて力一杯のことをやればよい」と話し、「(偉そうな肩書をぶらさげて)あーだこーだと評論するのでなく、実際に自分の能力の範囲で今できることをするのが大事(例えば、馬のクソをひと握り拾って、米を少しでも作る)」で「この『心』を持つことが自分を助ける」と言っています。
中川横太郎さんは、この演説の内容通り己の力でできる力いっぱいのことをした人であり、後世に名を残す人にもなったわけです。
※この項は、意訳して割りとこじつけました。詳細は、参考URLの[3]を参考にしてください。
まとめ
目的のために、柔軟に手段を選んでいける人の印象を持ちました。
人(当時の人、後世の人)のために、学校の設立・発展や会社設立、近代化の普及に努めた方。卒業生の活躍などを考えたらとてつもない貢献をされております。そんなまっすぐな大志のある中川横太郎さんには、そりゃ、まっすぐな碑もたちますね。
参考URL
[1] Wikipedia 中川横太郎[2] 岡山市 岡山歴史のまちしるべ多言語版(C66中川横太郎)
[3] 岡山県立記録資料館 紀要 – 岡山県立記録資料館 p.53~