岡山出身の偉人・変人・奇人第3弾は「人見絹枝」さんです。今では、「偉人」ですが、当時は当時の風潮の中で「奇人」「変人」扱いされた人だと思います。
何をやったか?
日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となります。その銀メダルを獲得したときは、壮絶だったようです。
人見絹枝は、事実上100m走にかけていましたが、準決勝で敗退してしまいます。
「このままでは日本に帰れない」
という思いを胸に、未経験の800m走出場。死に物狂いで走り、ゴール後に失神。気が付いたときにはスタンドに日の丸が。僅差の2位でした。ちなみに、1位のドイツのラトケ選手もゴール後、失神するという。もう、競技なのか我慢比べなのか…そのため、一時期女子800m走が種目から外れたとのこと。
昔、道徳かなにかの時間で「人見絹枝」さんのことを学びましたが、こんな壮絶なことが書かれていたかな・・。
何がすごいのか?
時代的な背景もあるのですが、当時は「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」「日本女性の個性を破壊する」といった女子陸上への偏見が強かったようです。当時、短距離走の日本記録を保持していたある姉妹はこういった世間の偏見が一因となり、アムステルダムオリンピックへの出場を辞退したとか。
そんな風潮の中、人見絹枝は、諦めず競技を続けオリンピックに出場しメダルまで勝ち取ったのです。
この偏見や風潮に対して、人見絹枝は女子陸上競技に関する記事に、
「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や、日本女子競技会には指一つ触れさせない」
と書いたそうです。かっこよすぎて震える・・。
人見絹枝は、かくして女子陸上競技界の「ファーストペンギン」(勇敢なパイオニア)となりました。
人見絹枝が失神しながらメダルを取った姿勢というのは、この当時の世間の偏見や風潮に風穴を開けたでしょうし、当時の日本の女性に夢や希望を大いに与えたと思います。
しかし、残念ながら24歳という若さで亡くなりました。辞世の詩は、「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」。最期まで諦めない性格が伺われます。
もう一人、岡山出身の「人見」姓ですごい人がいます。人見光夫さん。マツダのスカイアクティブエンジンの生みの親で、著書が「答えは必ずある」。こちらも最後まで諦めない性格のようです。何やら「人見」姓の人は諦めない人が多いのか?こちらはまた次回でも。
実は、あと二人。中学校の数学の先生と、高校の英語の先生が「人見」姓。どっちも禿げて眼鏡でファンキーだったので実は血縁関係があったのではないかと睨んでいる。これは、完全な蛇足でした。
※画像はただのイメージです
参考