中川横太郎。明治の元勲に記号だけの手紙を返したり、まさしく「奇人」と称されるだけはある。また、勝海舟や山田方谷などの偉人にも会っているようだ。そんな中川横太郎をもっと知るために、彼の著書を集めたかったがどれも古い本で入手は難しいようだ。ネットに掲載されていた演説の一つを自分の学びのためにも抜粋意訳する。
「意訳」というのは、彼が江戸生まれのため日本語が古い。高校時代の漢文か古文を読んでいるようだった。高校時代あまり勉強しなかったので、ちゃんと意味がとれていないところもあるだろう。この抜粋意訳を読んで興味をもたれたら原文を読んでほしい。
生活上、重要な「衛生」に関してお話します。漠然とした言葉ですが、生活すべてに関係があります。それは経済の根本であるともいえます。
現在、「衛生」(えいせい)とは、健康の維持と向上を図り、疾病の予防と治療に努めることを意味します[1]。広辞苑(第六版)では「命(生)を衛(まも)ることを意味する」とされています。
中山横太郎さんのいう「衛生」がこの辞書どおりの定義なのかという懸念はあるが、辞書通りの意味だとして「衛生」、つまり、健康維持や疾病の予防が「経済の根本」というのは、コロナ禍の経済の混乱をみるとよくわかる。健康を害して退職などしたら収入が減るのは目に見えています。「衛生」は大事です。
「衛生」に密接に関係があるのが「考え(方)」です。この「衛生」と「考え(方)」の関係を緻密に説明するということはあまりありません。しかし、すべてのことは「考え(方)」から起きていることは皆さんお判りでしょう。
そこで、まず「考え」がどういうときに起きるかというと、決して何も無いときには起きません。花の美しさを見て花が美しいと「考え」ます。また、美人の顔を見れば、あれは立派な顔であるという「考え」が起きます。このように「何か」があって「考え」が起きるのです。
さて、世間の人がどんなことを「考え」ているかというと、1も2もなく欧米のことばかり考えているように他国や他者について「評論」や「批判」「憧憬」などを考えるが、自国や自己ついての内省的な「考え」が薄いように思われます。考えるうえでそのことにも注意しなければならない。
明治初期の人なので、「欧米」(原文ではヨーロッパ)と言っています。現代に置き換えると、他国や他人のことばかり考えて自分のことについて考えていないと言い換えることができるかもしれないですね。
パリオリンピックの選手を批判している人がいるが、そもそも自分は彼ら・彼女たちのようにできる限りのことを何年もやってきたのか?彼らのようなプレッシャーにさらされてきたのか?
ここで重要なのは、「考え」の優先順位で、「他人のことを考える(他人のことを考えて批判する)」前に「自分のことを考える(自分ができることをやっているのか)」ではないかということです。
政治もどうだと思います。やたら、与党を批判ばかりしている政治家はいませんか?
わが国にとって必要な「考え」とは何なのか?
ブドウの1本、ナスの1つや、芋の1つでも作るときに、ステッキを掲げて演説し、胸に金時計を光らせて弁論しているのが正しい「考え」なのか?そうではない。もし、そんなことをしていたら決して国の為にはならない。(口ばっかり動かす(最近ではSNS投稿で指も動かすか)のではなく実際に)馬のクソを一握り拾って肥料にして米の一握りでも作る(と考える)のが国にとって為になることであると思います。
そういうためになる「考え(方)」をするにはどうしたらいいのかと言えば、「宗教」にヒントがあると思います。
「宗教」と言えば何やら急にうさん臭くなりますが、「宗教のアイデア」とか「宗教の思想」といった感じです。なので、しっかり「宗教というものの中には嘘っぱちが多いと皆さんも言われますが、私もそう思います。」と続けています。
宗教というものの中には嘘っぱちが多いと皆さんも言われますが、私もそう思います。
しかし、医者が使う薬はどうでしょう?薬は人のためになるかと言えば言うまでもありませんが、これをたくさん飲めば毒となる・・死ぬ。しかし、医者が病を治すのはその毒を適度に使うからです。
皆さんの知っているように名僧が(説法で)多少のウソを言う。しかし、そのウソはちょうど医者が毒(薬)を飲まして病人を助けるのと同じなのです。外科医が人を切ってその病気を治すように、坊主がウソを言って無いことをあるように言って人の悪心を翻させて良心に戻す。
そこで私は思います。人の心、人の想いを生ずるものを作り出すのは「宗教」であると。
「宗教」は時代遅れかと言えば、違う。今の時代でも通用する。しかしながら、坊主の不品行、その働きが無いところからその妙味を人に知らせることができなくなってきただけでなく、ついには人に利用されてしまった。(中略)
日本ではどうかと言えば、日本も全く同じである。釈迦が経を説かれたが、後世のものがただその一字一句に拘って(囚われて)、その経が示している妙法・・・真理自体を人に理解させられていない。
臨済録の臨済義玄も同じようなことを言っています。
たとえて言えば、人に眼鏡を作るときは、その人の眼の視力に合わせる必要がある。しかし、その視力を測らずみんな同じ眼鏡を与えればよく見えないだけでなく、眼鏡をかけた人は嫌になってしまうだろう。
坊主もこれと同じこと(相手に合わせた説明をするのではなく賢者にも賢者ではない人にも同じ説明)をして宗教の真理(言いたいこと、考え)を理解させられていない。
大学の時の話です。学生が理解しているか関係なく、ずっと教科書を棒読みしている教授がいた。そうかと思えば、一番前に座った学生に質問責めして授業を構築していた教授もいた。「この問題分かった?」「分からない?何時間考えた?」「30分?少ない。わかるまで考えろ。それが考えるということだ。」「じゃあ、(このレベルで)説明するか・・・」前者の教授のことは覚えていない。何を学んだかも覚えていない。後者の教授のことは覚えている。顔も名前も何を学んだかも。前者の教授のような坊主ばかりならその宗派は廃れるだろう。
職場でもそうだ。自分が言いたいことをまくしたてている人がいる。そういう場合は、客は説得されているように見えるが実は納得されていないことが多い。あとあとこじれてくる。
宗教の本は難しいように思う。内容の無い簡単な本はあるが、内容のある(理解が)簡単な本は少ないと思う。
釈迦は、全ての事は我が心より生じる、すなわち、俗に言う地獄極楽は自分の心の持ちようから生じるから、心ほど大切なものはない。人は恐るに足りないが、心ほど恐ろしいものはないという意味をいっている。すなわち、これが「唯我独尊」であると。
参考文献
[1] goo辞書